小牧山城から望む 秀吉 vs 家康 最初にして最後の激突!組織運営のヒントを探る 〜 その① 〜
◆ ◆ 宿敵 ◆ ◆
今から 435年前。
愛知県 小牧市から長久手市にかけた 一帯で、その後の日本を占う戦いがあった。
同盟関係でありながらライバルでもあり、のちに頂点を極めた両雄が、最初にして最後の 直接対決。
のちにこの戦いを、「 小牧長久手の戦い 」と呼びます。
今回 注目したいのは、この戦いの中で 組織運営にとって重要な
⚫︎決断力(情報収集と分析)
⚫︎行動力(優先順位の徹底)
⚫︎統率力(目的意識の共有)
が、現代のスピード社会でも驚くほどの短期間で発揮され、その事が、その後の両雄の関係に大きく影響したことです。
更に、仕事をする上で誰もが陥いる失敗が、敗北に導く決定的瞬間になったことも注目すべき点です。
⚫︎ 私利私欲 自己防衛 優先
⚫︎ 情報の過小評価(狭い範囲での判断)
この事は、社会、スポーツ、学業 など組織の中で働く者、行動する者にとって、注意しなくてはならない点ですが、多くの方が経験する失敗の要因ではないかと思います。
今回は、そんな戦国時代の一幕を、現代社会への教訓として覗いてみました。
※ 小牧山城 天守閣から、南東に位置する 長久手古戦場を望む。
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「 小牧長久手の戦い 」の 概要
天正12年 1584年 3〜11月
織田信長 亡き後の後継問題から 清洲会議が行われ、次第に 羽柴秀吉 が頭角をあらわす。
その秀吉と、それを阻止したい 織田信雄(信長の次男)徳川家康 連合が、愛知県 犬山市, 小牧市, 長久手市 一帯で 激突。
しかし、両軍全面対決の準備をしながら、終始小競り合いの戦いに終わります。
戦いの概要を一言で表すと
「 矛盾の戦いによる睨み合い 」
秀吉 陣営の 8万もの大軍を「矛」とすれば、小牧山 を 完全要塞化 した家康 陣営は「盾」。
お互い手を出しにくい展開になり、長期間 膠着状態に陥ります。
最終的には 秀吉が 織田信雄を和睦に引き込み、その後の天下統一に繋げたことにより、歴史上は 秀吉 陣営の勝利とされました。
※ 清洲城 → 小牧山城 : 家康 本陣 ( 兵力 2万 )
※ 犬山城 → 楽田城 : 秀吉 本陣 ( 兵力 8万 )
今回 注目するのは、8万の大軍を持つ 秀吉が 家康本人に手を出せなくさせた戦いが 初戦にあったことです。
「長久手の戦い」1584年 4月6〜9日
※ 秀吉軍 第2隊 森長可に一斉射撃をする徳川軍
そしてその戦いは、秀吉が天下を統一した後も 家康に対して強く言えない状況にさせました。( 家康の拠点 岡崎は、刀狩りや検地の対象から外されました)
結果的にこの初戦は、徳川 260年の歴史に繋がるほど 重要な局面だったと言えます。
武将と当時の年齢
⚫︎秀吉 陣営⚫︎
羽柴秀吉 47歳
丹羽長秀 49歳(織田家宿老,清洲会議の1人)
池田恒興 48歳(信長の乳兄弟,清洲会議の1人)
森長可 26歳(森蘭丸の兄,恒興の娘婿)
三好秀次 16歳(秀吉のおい,秀吉の後継者)
堀秀政 31歳(信長の家臣,荒武者)
⚫︎家康 陣営⚫︎
徳川家康 41歳
織田信雄 26歳(信長の次男)
酒井忠次 57歳(徳川四天王)
榊原康政 36歳(徳川四天王)
井伊直政 23歳(徳川四天王)
丹羽氏次 34歳(岩崎城主)
激突までの 経緯
▶︎ 1582年 6月27日
清洲会議 (織田家 家督相続を決定する会議)
織田信雄(次男) , 織田信孝(三男)
柴田勝家 , 丹羽長秀 , 池田恒興 , 羽柴秀吉
※ 家康は、織田家の同盟客将のため参加していない。
▶︎ 1583年 4月22-24日
賤ヶ岳の戦い (琵琶湖 北部)
越前北庄城にて 柴田勝家 自害
尾張知多 大御堂寺にて 織田信孝(三男)切腹
秀吉の勝利
内部抗争が終わり落ち着いたかに見えたが、秀吉の台頭、威圧的な態度に、織田信雄(次男)が警戒心をいだき、両者の溝が深まりだす。
家康は、後継問題には中立の立場をとるが、水面下では反秀吉の外交を始める。
▶︎ 1584年
1月
羽柴秀吉 と 織田信雄 の和解会見 不成立。
織田信雄 が 徳川家康 に依頼状を送る
2月
信雄 と 家康は、秀吉反旗の約定。(密談)
3月6日
信雄、秀吉に宣戦布告をする。
3月7日
家康が 8千の兵を率いて 浜松城を発つ。
両軍 戦闘態勢に突入
織田信雄 , 徳川家康 vs
羽柴秀吉 , 丹羽長秀 , 池田恒興
▶︎ 1584年 3月13日
徳川家康 が 清洲城 に入る。
※ 木曽川の対岸より犬山城に潜入、1時間あまりで落城させる。
3月15日
近江坂本城にいた 羽柴秀吉が 池田恒興 犬山城 占拠 の報を聞く。
徳川家康が小牧山城に目をつけ 酒井忠次(徳川四天王)に占拠させる。
3月17日
秀吉方の 森長可(池田恒興の娘婿,森蘭丸の兄)が先手を打つが、徳川方の 酒井忠次(徳川四天王)に敗れて敗走。
※ 近代破壊兵器の無いこの時代、山頂からの銃撃の中 この土塁を突破することは、絶望的に近い。
3月27日
羽柴秀吉 犬山城に入る。( 兵力 8万 )
徳川家康 小牧山城に入る。(兵力 2万 )
3月29日
羽柴秀吉 楽田城に入り周辺に砦を築く。
織田信雄 (次男)小牧山城に入る。
4月に入るまで、楽田城の秀吉 × 小牧山の家康 共に にらみ合う。
その ② 「 奇策 と 油断 」に続く
https://mdesign0516.hatenablog.com/entry/nagakute-battle-look-from-komakiyama-castle-part-2