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【うちの家族旅行 体験記】予算決めからタイムスケジュール、裏技など 少しでもお役に立てて頂けたらと思い、こちらのブログで紹介させて頂きます。

小牧山城から望む 秀吉 vs 家康 最初にして最後の激突!組織運営のヒントを探る 〜 その② 〜

◆ ◆ 奇策 と 油断 ◆ ◆

f:id:mdesign0516:20190830005745j:image※ 盾となった岩崎城。尾張三河の国境に位置する織田家 配下の小城。秀吉軍 三河進撃隊の前に 守備兵 300人 全員討ち死に。城内は血の海となり落城する。

その① から続く

小牧山城から望む 秀吉 vs 家康 最初にして最後の激突!組織運営のヒントを探る 〜 その① 〜 - とらべる ふぁみり

織田家後継問題から、最初にして最後の対決に突入した羽柴秀吉徳川家康

勢いよく飛び出した両軍だが、思惑とは裏腹に睨み合い、我慢比べが続く。

そんな中、秀吉方の織田家家老 池田恒興が 密かに徳川家の本拠地 岡崎を攻める 奇策 を提案する。

この作戦が、秀吉 家康の今後の関係を左右することになります。

その②では、組織運営に重要な意思統一の差が 結果を大きく変えていくことに注目します。

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  膠着状態

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▶︎ 1584年  3月29日

秀吉は 楽田城に陣を張り、周辺にいくつもの砦を築く。 8万もの兵を配備し、完全決着をつける様相。

対する 家康は 2万の兵力ながら、小牧山を完全要塞化。周辺に砦を築き 持久戦に持ち込む構えをとる。

このまま、一週間近く こう着状態に陥る。

 

  秀吉の苦悩

お互いが にらみ合う中で、秀吉方の武将 池田恒興清洲会議の1人)が、家康の本拠地 岡崎を奇襲する 「 三河中入り 」作戦を 提案し、自分にその大役を任せてほしいと懇願した。

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秀吉は、この作戦に猛反対する。

今の状況は動くべき時期では無く、奇襲とは一か八かの奇略であり、計画を入念にしないとまず失敗する。今リスクを負う必要が無い と作戦を却下する。深慮遠謀である。

これは正しい判断で、家康がこの立場でも同じ考えを持ったはずである。

しかし、秀吉は、池田恒興の再三の要求に折れてしまう。

この要因は、池田恒興の要求理由にあった。恒興の娘婿 森長可森蘭丸の兄)の 名誉挽回である。
森長可は、初戦に負けた失態を悔やんでおり、その名誉挽回をしたいと願い出ていた。

f:id:mdesign0516:20190830075546j:image※ 左: 池田恒興  家老として 織田家 影の立役者
※ 右: 森長可  鬼武蔵の異名をもつ勇猛な武者。

秀吉が恐れたのは、
武士の情けを受け入れないことで、
内部反発 → 寝返り → 自軍分裂
であった。

【 ポイント 】
秀吉陣営と 家康陣営の決定的な違い。

家康陣営は、松平家の時代から支える古参の家臣団で構成されていたが、秀吉陣営は、織田家の家臣。言わば 横並びの同士。いつ寝返りがあってもおかしくない状況にあった。

【 ポイント】
政略、戦略の目的意識 共有の差

秀吉の政略は、家康を力で確実に抑えつけ世間に誰が強いかアピールすること。

その為の戦略は、圧倒的戦力で家康を包囲・疲弊させ、ほころびが出た所を一挙に攻め立てる。目標は 家康の首 ただ1つ。

実力が拮抗する相手に 奇策や目の前の手柄を考慮する余地は無いと考えていたが、家臣の間では思惑にズレがあった。

秀吉は、「 三河中入り 」作戦について、途中の小城には目もくれず一刻も早く 岡崎城を目指し、城下への放火の後 即撤退する ことを強く要求している。

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三河中入り 」作戦 発動

▶︎ 1584年  4月5日
秀吉 「三河中入り」作戦を決定。

4月6日  夜10時
池田恒興 率いる 三河進撃隊が、楽田城をひそかに出発。

4月7日
三河進撃隊は 篠木・柏井宿で宿泊。大留砦で現地の地侍と進路評議。

しかし、現地の地侍が 住人に対して 秀吉方への威嚇 勧誘をしたことで 逆に反感を買い、住人が家康に密告してしまう。
(この周辺は織田家の直轄地)

この日の午後には、家康は 住人からの報告を聞き、即座に偵察部隊を 数回に渡り送り出す。

【 ポイント 】
正確な情報入手と分析力
家康は、密告のあった4月7日の夜半には偵察部隊の情報を分析し、軍勢の正体と規模、その行き先を突き止めている。

f:id:mdesign0516:20190901091658j:image紫色の→ : 秀吉軍 三河進撃隊 進路
水色の→ : 徳川軍 追撃隊 進路

4月8日  夜10時
三河進撃隊 総勢2万は、各隊 順次縦列体形で 出発する。
第1隊  池田恒興  6千(勇猛比類なき織田家雄)
第2隊  森長可      3千(名誉挽回の鬼武蔵)
第3隊  堀秀政      3千(経験豊富な荒武者)
第4隊  三好秀次  8千(若干17歳の総大将)

この時 三河進撃隊は、この作戦が敵に漏れていることに気づいていない。
迅速果敢を要する進撃隊が、何故かこの地で 2日近く停滞してしまう。
一説には、2度目の失敗が許されない池田恒興 森長可の立場が、逆に慎重にさせたと言われている。

一方の徳川軍

4月8日  夜 7時
家康は 三河進撃隊を強襲する先発隊 榊原康政徳川四天王)4千人を小幡城に向けて出陣させる。※ 三河進撃隊より早い行動
同日  夜8時
家康を総大将とした井伊直政徳川四天王)ほかの本隊 6千人も出陣。

4月9日 午前 0時
小幡城に徳川軍 集結。
夜半から軍議を開く。

f:id:mdesign0516:20190828010217j:image小牧山城 天守閣から 小幡城方面を望む
(距離 13km)

【 ポイント
家康 陣営が早く情報を入手し 追撃を開始できた要因
小牧山から長久手にかけた一帯が、織田信雄の領地で情報を入手しやすかった。
・家康側は、部隊長クラスまで全て古参の家臣団で、家康本人が全て掌握できていた。

秀吉 陣営の弱点
・本陣のある犬山も含めて、基本的にアウェイの状況下での行動。
・全軍における意志統一が安易あいまいであったこと。

f:id:mdesign0516:20190825230412j:image※ 徳川軍が 小牧山城から小幡城に打って出たことを、秀吉も三河進撃隊も気付いていない。

 

  岩崎城攻撃 と 忍び寄る徳川軍

f:id:mdesign0516:20190904213013j:image紫色の→ : 秀吉軍 三河進撃隊 進路
水色の→ : 徳川軍 追撃隊 進路

4月9日  早朝 4時
三河進撃隊は 昨晩からの夜間行軍で、第1隊  池田隊が、岩崎城付近にさしかかる。

その動きは 岩崎城側からも確認され、すぐさま 池田隊への攻撃命令が下される。

この時の城内守備には、城主 丹羽氏次の弟で 16歳の氏重がついていた。
兄 氏次は 小牧山城に参陣していた為、城内の守備兵は 300人ほどであった。

f:id:mdesign0516:20190901091757j:image※ 岩崎城 天守閣より東を望む。

4月9日  早朝 5時
岩崎城からの攻撃を受けた 第1隊 池田隊は、岩崎城 総攻撃に入る。

兵数 300 余りの小城に 4000人の軍勢が攻め寄せ、あっという間に打ち破られ、城内は 血の海となり、全員 討ち死にをとげた。

同日  朝 7時
岩崎城 落城。

池田隊は、部隊の休息と朝食を兼ねて 岩崎城の北にある 六坊山 山嶺で首実検を始める。

しかし 第1隊の岩崎城攻撃により、後方の 第 2 , 3 , 4隊 は足止めをくうことになり、遂には 徳川軍の追撃を許すこととなる。

 

  攻撃の謎 と 失態

三河進撃の 先鋒である 池田隊が、なぜ攻撃する必要もない岩崎城を攻撃したのか。

その主な理由として、二説 ある。

① 岩崎城からの狙撃で 恒興が落馬、激怒した 恒興が攻撃命令を下した。

② 初戦以来 敗戦が続いたため、岡崎入りの手初めに、軍神への血祭りを行った。

f:id:mdesign0516:20190901221320j:image※ 岩崎城の防塁。大手門から土橋へと一挙に攻め込まれ 2時間ほどで落城。小牧山城と比較すると防御力の低さが分かる。

① の理由は、当時の鉄砲の射程距離 50〜80m であることを考えると、少し現実的ではない。

池田恒興 自身は、斥候を出して岩崎城を偵察させており、小城であるため素通りする事を決定したいた。

さらに 秀吉からは、敵の誘い乗らず慎重に行動し 必ず目的を達成する よう戒められていた。

それでは 何故。

理由は ② にある。

この時、岩崎城 迂回派と攻撃派で意見が分かれたが、第2隊 森長可を含め 攻撃を主張する家臣が多く、結局 軍神への血祭りと称して、組織の戦意高揚と目の前の手柄 に向かってしまったことが考えられる。

さらに岩崎城 落城後、勝利に酔って 首実検をおこなっていることで この作戦の主旨・目的意識に欠けている ことがわかる。

※ 首実検とは
敵方の首級(くび・しるし)の身元を大将が判定し、その配下の武士の論功行賞の重要な判定をする作業。

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ちなみに 家康は、開戦当初から 敵に多くの打撃を与えることを優先するため、大将級 以外の「打捨て」(首を取らないこと)を命じており、徳川軍はこの軍令を忠実に守っている。

また、首実検は総大将である 三好秀次が行うことが 筋であるが、先発隊の池田恒興が行なった所に、この作戦の指揮系統が統一されていないことがわかる。

秀吉が心配した 準備不足 と 意志統一の欠如が 露呈した結果になった。

f:id:mdesign0516:20190904213044j:image※ 池田軍 岩崎城攻撃進路

 

  その③ 家康 渾身のヒット&ウェイに続く

小牧山城から望む 秀吉 vs 家康 最初にして最後の激突!組織運営のヒントを探る〜 その③ 〜 - とらべる ふぁみり