明智光秀も眺めた?東尋坊。 オシャレなカフェで地中海風のロケーションを楽しもう
この写真を見て、ここが 日本の名勝 福井県 東尋坊 だと想像できるでしょうか。
今回は、かつての THE 昭和 なイメージとはかけ離れた、ちょっとオシャレな東尋坊を紹介します。
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もしかして明智十兵衛も⁉︎
コロナ禍で自宅に篭る日々。
来週はいよいよ長良川の戦い、美濃編のクライマックスだ。
この後、戦いに敗れた明智十兵衛(光秀)は、美濃と越前の国境 油坂峠 を越えて朝倉氏に身を寄せる。
そこで10年余りを過ごすことになるが、地元の住民からは敬愛されていたようで、光秀を祭った明智神社なる場所も存在する。光秀の住居もこのあたりだったそう。
その明智神社から距離にして30kmのところに、東尋坊がある。歩けば7時間ほどかかる。ちょっと遠いが 光秀も東尋坊からの景観を眺めたのではないか。そうだとしたら、海のない美濃の国で育った光秀にとって東尋坊から望む日本海は、美濃での戦乱を忘れさせるほどの爽快感を感じたのではないか。
そんなことを考えていたら、昨夏訪れたこの地にまた行きたくなってしまった。外出自粛の中、せめてブログで振り返ろうと思う。
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25年ぶりの 東尋坊
訪れたのは、2019年8月17日
各地で被害をもたらした大型台風10号が去った次の日。まさに台風一過の晴れやかな夏日でした。
東尋坊と聞いてイメージする景色はこんな感じだと思う。
日本海に面した海食崖で、高く険しい岩壁が続く。
そして、遊歩道や軒を重ねるお土産屋さんの雰囲気は THE 昭和!磯の香りにのせて歌謡曲が流れる様子が目に浮かぶ。
昨夏、私がこの地を訪れたのは、実に25年ぶり。学生時代以来のことだ。
かつての昭和(訪れたのは平成でしたが)を顧みたくて行ってみたのだが・・・
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なんかオシャレ・・・
ここは 東尋坊の先端、景観の一等地にある IWABAカフェ(岩場カフェ)。
東尋坊から日本海を望むには絶好のロケーションにあるこのカフェは、2016年にオープンした東尋坊では人気のカフェ。
外観もメニューも、あの ス◯バ にそっくりですが、ここのオススメはなんといっても、店内から望むオーシャンビュー。「神の席」と呼ばれる特等席に座れば、地中海リゾート気分満点!(地中海行ったことないですけど)
※IWABA CAFEさんWEBサイトより
予約不可で、空席になることがほとんどないため 正に神の席。残念ながら、私は座ることができませんでしたが、全ての席から海を見ることができるので、それだけでここに立ち寄る価値があると思います。
※IWABA CAFEさんWEBサイトより
それ以外にも、ちょっと変わった雑誌屋さんや、昨年のトレンド タピオカドリンクのお店など、随分とオシャレな雰囲気になったなぁと。
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でも、私のしめは、やはりコレ。
イカ焼き定食 1400円。
どうしてもこれが食べたかった。学生時代に食べて感動したこのイカ焼き。
昔は確か900円で、イカはお皿からはみ出すほどの大きさでしたが。それでも私の東尋坊といえばコレです。
オシャレなお店と東尋坊。昔とは違った姿の観光地になりつつありますが、永年の月日が刻んだ荒々しい景観は、いつの時代に眺めても人の心を打ち続けるのではないでしょうか。
今度こそ、「神の席」で!
以上でございます。
対応の早さに驚き!臨時休園中のディズニーランドチケット 返金が完了しました。
臨時休園中のディズニーランドチケット
3月28日に 返金のWEB申請をして、
4月22日に 入金を確認しました。
予想以上にスムーズに事が済んだことに、さすが ディズニー、有事の際にも顧客への誠実さは変わらない と感じました。
そこで、これまでの経緯とWEB申請の流れを振り返ってみました。
※ディズニー公式WEBサイトより
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経緯
まさかこんな事態になるとは。
2020年 2月 末日
新型コロナウィルス感染拡大防止に伴い、東京ディズニーリゾート臨時休園の一報。
1年の内で1番楽しみにしていたイベントが中止になり、がっかりする娘たち。計画も準備も着々と進み頭の中はすでに夢の国だったのに。※ディズニー公式WEBサイトより
そんな家族を横目に私が心配した事は、ディズニー公式アプリで購入したチケットはどうなるのだろう ということ。
宿泊ホテルは、宿泊日の2週間前まではキャンセル料なしでキャンセル可能でしたが、アプリで購入したチケットに関しては、原則 キャンセル、返金 は不可。
当時、世間もディズニーリゾート側も先行き不透明な状況の中、臨時休園の日程以外は決定出来ない様子でした。
3月に入ると臨時休園の期間が延長され、それに伴い 臨時休園中のチケットの変更または返金 がされる との発表がありました。
混乱している状況の中でも早々に方針を発表してもらえた事は、とても助かりましたし、安心することができました。
そして待つこと 3週間ほど。3月末日、ディズニーリゾート公式ホームページから チケット対応のウェブホームの閲覧が可能に。
3月28日、早速 チケット料金 返金のWEB申請を行うと、翌日には申請受付の返信が届きました。返金には1ヶ月ほどかかるとのことでした。
そして 申請から約1ヶ月。
4月22日に、オリエンタルランドからの入金を確認しました。
緊急事態宣言が出され混乱する世の中で、予想以上に段取り良く対応してもらえたことに、改めて ディズニーリゾートの顧客に対する誠実さを感じました。
それとともに、顧客のニーズと企業の成長が一致した市場は、お互いに安定 安心を得られる環境を維持できる その力強さがあるのだと痛感しました。
が・・・
長期戦が予想される今回のコロナ禍。
世の中の市場がいつまで持ちこたえることができるのか。
有事に企業の体力に委ねるしかない日本の社会は、コロナ禍が去った後の課題の一つになりそうです。
チケット料金 返金申請の流れ
① ディズニー公式WEBサイトより、チケット対応ウェブフォームへ
② 返金を希望 を選択
③ 振込先、連絡先を入力
④ チケット番号を枚数分(家族分)入力
チケット番号の記載場所は、サンプルから確認することができます。
⑤ チケットの画像を添付
スマホのカメラで撮影すると、添付制限 の2MB以内を超えてしまいます。
データ容量を抑える方法は、撮った写真をメールに添付して 自分宛に送信すると、データを圧縮することができます。
⑥入力内容を確認して送信。申請完了
あとは待つだけです。
そして 手元に残ったチケット・・・
残された まっさらなチケット を眺めて、ため息をつく娘たち。
平穏な日々がどれだけ幸せで贅沢なことか と感じる今日この頃であります。
※ディズニー公式WEBサイトより
以上でございます。
ディズニーオフィシャルホテル 春休み 家族泊 お値打ち快適プラン比較
2020年 春休み
東京ディズニーランドのオフィシャルホテルに2泊するために、お値打ちで快適な宿泊プランを比較検討して、予約をしました。
予約したプラン内容と比較検討したプランを紹介します。
※ プランは近畿日本ツーリストとJTBで検討。今回は早めの予約確定をしたかったので大手旅行会社にて予約(旅行日の半年前に予約)
◆ 目次 ◆
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
【我が家の宿泊条件】
⚫︎ 旅行日 2020年 春休み 3月末日
⚫︎ TDRオフィシャルホテル
⚫︎ 宿泊日数 2泊(連泊)
⚫︎ 宿泊人数 大人 4人
(大人 2名 , 高校生 1名 , 中学生 1名)
⚫︎ 駐車場 2日間利用
⚫︎ 宿泊料金 合計 10万円以下
⚫︎ 洗い場のあるお風呂 (希望)
⚫︎ 部屋の広さが40㎡前後 (希望)
今年度は次女が中学生になり、我が家の宿泊料金は全て大人料金になりました。
加えて増税もあり去年と比較して旅費アップが避けられない状況。
我が家の旅行総費用から逆算すると、宿泊費用を 2泊 10万円 以下にする必要があり、その大前提のもと 宿泊プランを検討しました。
その他の希望は、お風呂に洗い場があること、部屋の広さが 40㎡ 前後はあること です。これは私以外の家族 女性 3人の意見です。
ビジネスホテルに慣れた私からすると、夜遅くパークから帰ってきて、朝早くに出て行くのだから、シャワーを浴びて寝るだけで十分ではないかと思うのですが、ここは女性ならではの感性。僅かなゆとりと落ち着きが旅全体をより充実した時間にするという訳です。
【予約した宿泊プラン】
シェラトン・グランデ・トーキョーベイホテル
2泊 朝食付
トレジャーズルーム 4名
部屋の広さ 40 ㎡
バスルーム 洗い場付
駐車場(2泊) 4,700円
◆ 合計金額 ◆
98,300円 (税込、駐車場料金込み)
※ 宿泊日の料金ランクは、D(A〜J)
Aが最安料金日
【プラン内容】
近畿日本ツーリスト
先着6室限定 特得プラン
+100円でスタンダードルームの料金のまま、グランデルーム・トレジャーズルーム・オーシャンドリームルーム にランクアップ
宿泊料金 16,100 + 100 円 (×4名×2泊)
駐車料金(2泊) 4,700円
早45割 -3,500円 (×4名×2泊)
連泊割 -1,000円 (×4名×2泊)
合計 98,300円
※ トレジャーズルームを通常予約をした場合の合計金額 143,100円 (税込、駐車場料金込み)
(17,300円/1泊)
【比較プラン 料金順位表】
⚫︎ 条件 ⚫︎
・大人 4人 2泊(連泊) 朝食付き
・駐車場料金込み
・先着特典プラン(ランクアップルーム)
・早割引き
・連泊割引き
・合計金額 10万円前後
① 東京ベイ舞浜ホテル ファーストリゾート(旧 サンルートプラザ東京)
84,600円 (近畿日本ツーリスト)
② 東京ベイ舞浜ホテル ファーストリゾート(旧 サンルートプラザ東京)
89,600円 (JTB)
③ シェラトングランデトーキョーベイホテル
98,300円 (近畿日本ツーリスト)
⑤ シェラトングランデトーキョーベイホテル
105,500円 (JTB)
⑤ ヒルトン東京ベイ
105,500円 (近畿日本ツーリスト)
⑦ 東京ベイ舞浜ホテルクラブリゾート
108,300円 (近畿日本ツーリスト)
⑧ 東京ベイ舞浜ホテルクラブリゾート
113,100円 (JTB)
【トレジャーズルーム 選択理由】
予算内に収まったことが 1番の理由ですが、次女がペンギンのアメニティーセットが欲しい!と言い出したことも大きかったです。
ネット予約の 一休.comや、トリバゴでも調べましたが、シェラトンのトレジャーズルームは、我が家の予算内に収まらなかったり、早期予約が出来なかったりと、なかなか人気のある部屋なのだと思いました。
ただ・・・次女以外の家族は、もう少しシックな部屋が良いかなぁと感じましたが、まぁ、この趣の部屋に宿泊することもあと僅かと思い、今回の旅行の楽しみの一つにしたいです。
以上でございます。
湯快リゾート「NEW MARUYA ホテル」宿泊を旅のメインにしたくなる ランクアップルーム
2019年 夏
湯快リゾート 「NEW MARUYA ホテル 本館」(石川県)のランクアップルームに宿泊。
リゾート感がありとても快適に過ごせましたので、その時の様子を紹介します。
【 宿泊日 】
2019年 8月16日 金曜日
【 宿泊プラン 】
ランクアップルーム (5F 角部屋 520号室)
一泊二日 バイキングプラン
【 宿泊料金 】
家族4人宿泊料金 合計 50,280 円(税込)
※ 1人 = 12,420円(税込)+ 150円(入湯税)
※ お盆期間による特日価格
ー 2019年 10月現在の価格 (増税後)ー
【 ランクアップルーム宿泊料金 】
平日,日曜日 10,450 円(税込)
土曜日 11,550 円(税込)
特日(連休日など) 13,750 円(税込)
【 スタンダードルーム宿泊料金 】
平日,日曜日 8,250 円(税込)
土曜日 9,350 円(税込)
特日(連休日など) 11,550 円(税込)
※ 4人宿泊の場合の価格
※ 湯快リゾートホームページより
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【 他の宿との比較評価 】
湯快リゾートへの宿泊は、今回の 「 NEW MARUYA ホテル 」で 5ヶ所目。
その中での比較評価です。
【 以前 宿泊した宿 】
● あわづグランドホテル(石川県)
● 恵那峡国際ホテル(岐阜県)
● かいけ彩朝楽(鳥取県)
● 三好屋(兵庫県)
▶︎ 建物の雰囲気、部屋の様子は、5ヶ所の中で NEW MARUYA ホテルが一番良かったです。
施設全体に清潔感があります。
リゾート感溢れる中庭、昔の小町を模した館内の作り、足湯など、宿泊客を飽きさせない工夫を感じます。
▶︎ スタッフのサービスは、どこの宿でも人件費削減の中、丁寧で明るい対応だと思います。
私は湯快リゾートの接客で嫌な思いをしたことはありません。
▶︎ 料理は地域の特産の違いがありますが、味、質は同じです。可もなく不可もなくです。
私は価格を考えれば、朝晩 色々な料理をお腹いっぱい食べられるだけで充分だと思います。
NEW MARUYAホテルの良い所は、朝日が降りそそぐ柴山潟を眺めながらの朝食でリゾート気分を味わえることです。
▶︎ 温泉は他の宿に比べて広くてキレイ。湯船は中湯と露天風呂の2つだけですが、湯船は広く、天井は高く、柴山潟を望むガラス窓も広大で、開放感があることが好印象でした。
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「 NEW MARUYA ホテル 」のおすすめ
ランクアップルームの紹介
今回、奮発してランクアップルームに宿泊。
スタンダードルームの価格と比べると、1人 2,200円 UP。
結論は、価格差以上の満足度がありとても快適に過ごせました。
湯快リゾートでは初めて連泊したいと感じました。
湖面の花火を見たくて角部屋を希望したことも良かったです。
※ 部屋の指定には、+1,000円/1人 が必要です。
今回、部屋指定無しで 予約時に ” 花火の見える部屋を希望 ”とだけ伝えたところ、運良く希望どおりになりました。
角部屋を指定される方がみえなくて、我が家の予約が半年前からの早期予約でしたので、希望が優先されたと思います。
【 ランクアップルーム フォトラリー 】
落ち着いた灯の廊下に、風情ある部屋の入口
広い玄関と立派な上がり框。3畳の取次の間。
14畳の和室に ささやかな客間?があります。
出窓から望む柴山潟。広縁では娘が宿題を広げる。
トイレと浴室は年季が入っています。
柴山潟で打ち上がる花火。
8月中は、”片山津温泉納涼花火まつり” として柴山潟で毎日花火が披露され(毎晩 300発)、お盆期間中は旅館近くで ”うきうき縁日” が開かれます。
今年は台風の影響で 8/16 の縁日が中止になってしまいましたが、花火は無事開催されました。
温泉に入って、お腹いっぱい食べて、浴衣で部屋から花火を観賞。
ゆったりとした 夏の癒し としておすすめできるプランだと思います。
以上でございます。
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余談
我が家の娘たちも 夏の温泉を堪能しました。
元卓球部員 と 現役卓球部員 との白熱勝負
娘がねだるお土産 をかけた真剣勝負
漫画部屋では ついつい夜更かし
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小牧山城から望む 秀吉 vs 家康 最初にして最後の激突!組織運営のヒントを探る〜 その③ 〜
◆ 家康 渾身のヒット&ウェイ
※ 武蔵塚 第2隊 森長可 討死の場所
※ 勝入塚 第1隊 池田恒興 討死の場所
※ 長久手古戦場跡 仏ヶ根の戦い激戦地
※ 血の池公園 徳川軍が血槍 , 血刀を洗った場所
その② から続く
小牧山城から望む 秀吉 vs 家康 最初にして最後の激突!組織運営のヒントを探る 〜 その② 〜 - とらべる ふぁみり
秀吉方 三河進撃隊の背後に迫る 徳川追撃隊。
遂に小牧・長久手の戦い最大の決戦が始まる。
その③ では、家康の組織統率力・決断力・行動力 が最大限に発揮された瞬間を紹介します。
現代のスピード社会から見ても驚きの、家康 渾身のヒット&ウェイ戦に注目!
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徳川軍の急襲 【 白山林の戦い 】
▶︎ 1584年 4月9日 午前 4時すぎ
三河進撃隊 第1隊 池田恒興隊が、岩崎城 総攻撃に入るちょうどその頃。
第1隊から 7 km 後方の白山林で待機していた 第4隊 三好秀次隊は、徳川軍に追跡されている事も知らず 朝食の準備に取り掛かっていた。
※この日の 日の出時刻は、午前4時35分
しらじらと夜が明け始めたころ、森が大きくゆれた瞬間、突如 徳川先発隊が第4隊 三好秀次隊の右舷に襲いかかった。
総大将の三好秀次は わずか17歳で全く戦闘経験が無い。すっかり動転してしまい、部隊は混乱状態に陥る。
部隊は総崩れになりながらも、白山林の南部高地 細ヶ根に踏みとどまり防戦に入るともに、第3隊 堀秀政隊と第1隊 池田恒興隊にこの危急を報告させた。
4月9日 午前 5時
第3隊 堀秀政隊は 岩崎城北部の金萩原で待機 休憩していた。
後方から銃声が聞こえた為、偵察を出し確認をさせる。
4月9日 午前 6時
第4隊 三好秀次隊の危急を知った 第3隊 堀秀政隊は、急遽転進 仏ヶ根をすぎ 桧ヶ根の高地に布陣する。
第4隊 三好秀次隊は、防戦しながら細ヶ根から高ヶ根の高台に移り 残存兵 千人ほどで布陣した。
秀吉軍の反撃 【 桧ヶ根の戦い 】
4月9日 午前 7時
徳川先発隊は猛追撃して 第4隊 三好秀次隊を追い詰めていたが、早朝からの急襲による疲労で 隊が乱れはじめていた。
これを見て第3隊 堀秀政隊は 桧ヶ根の高台より一斉射撃を行なった。
さらに高ヶ根の第4隊 三好秀次隊の残存兵も 一緒に攻撃に加わった。
2つの高台から攻撃を受けた徳川先発隊は 総崩れとなり 仏ヶ根方面へ敗走をはじめ、これを第3隊 堀秀政隊が追撃した。
それを見届けた 三好秀次は、稲葉方面(白山林の北、矢田川を越えたあたり)へ引き揚げてしまう。
【 ポイント 】
なぜ重要な作戦の総大将に 若い三好秀次がついたのか。
これは 羽柴秀吉の読みの甘さによる。
三好秀次を抜擢したのは、秀吉の後継者としての経験を積ませる目的があった。
秀吉は自軍の過大評価と敵の底力を見落とす傾向があり、家康を案外簡単に追い詰めることが出来ると判断していた節が見られる。
結果、三好秀次の指揮者としての経験不足と実力ある武将 池田恒興、堀秀政との食い違いが、全体の足手まといになってしまった。
家康の底力 【 仏ヶ根の戦い 】
4月9日 午前 8時すぎ
桧ヶ根の戦いが終わるころ、家康本隊は 桧ヶ根の南東にある富士ヶ根に布陣していた。
これは、第3隊 堀隊と第1,2隊 池田・森隊とを分断する目的であり、何事にも慎重な家康としては珍しく危険を冒しての強行作戦だった。
( 敵戦力分断 = 挟み撃ちにされる最悪の状態もありうる)
堀秀政隊は徳川先発隊を追撃して南下を始めたが、富士ヶ根に家康本隊の金扇の馬印を見て驚愕してしまう。
ここに至って堀秀政隊は 家康が参陣している事を 第1,2隊に報告し、部隊の疲労と三好秀次の護衛を理由に 稲葉方面へ撤退をしてしまった。
4月9日 午前 9時
両軍が 仏ヶ根を挟むように布陣する。
4月9日 午前 10時
仏ヶ根の決戦 戦闘開始
※ 家康勢は 仏ヶ根湿地帯を前にした高地に布陣。徳川勢は足場も良く小松などで防御され、一方の秀吉勢はぬかるんだ湿地に足を取られる状況にあった。
※ 家康軍は仏ヶ根の地形を十二分に活用した布陣と言える。
開始早々、家康方の右翼 井伊直政隊が 秀吉方 左翼 池田元助,輝政隊に襲いかかり、池田隊の諸隊を撃破する。
一方の森長可隊と対峙していた家康本隊も森長可隊に突撃し、その先鋒諸隊を撃破する。
両軍入り乱れての大乱戦は 家康軍が圧倒的に優勢であった。
4月9日 午前11時すぎ
劣勢を覆すため 森長可隊は長可自身が先頭に立ち、家康本陣に決死の突撃を行った。
しかし、これは無防とも思える捨て身の戦法であった。
白絹の袖無し羽織 を着た森長可は、徳川軍鉄砲隊の的になり、ついには 眉間を撃ち抜かれて即死してしまった。
※ 森長可隊に一斉射撃をする徳川鉄砲隊
森長可隊の劣勢を見た 池田恒興隊は、中央から救援に向かおうとするが
時すでに遅く、救援どころか自軍も左右から猛攻撃受けて包囲される。
そして、小高い松林の中にいた恒興は、徳川方の永井伝八郎直勝に討たれてしまった。
※中央 討たれた池田恒興
※右 池田恒興の首を背負う永井伝八郎直勝
【 ポイント 】
仏ヶ根の戦いで徳川軍が圧勝した理由
⚫︎ 現地の情報収集により最適な対応
家康は仏ヶ根に布陣する直前、決戦になると予測して仏ヶ根周辺を偵察・情報収集をさせ、それを有利な陣取りに繋げている。
さらに軍奉行(軍事指揮官)を最前線部隊に従属させ 敵情とその処置を考えさせたことで、全軍の柔軟な対応を可能にしていた。
⚫︎ 森長可の無謀な突撃が敗戦を早まらせた。
森長可は この「三河中入り」作戦で討ち死にする覚悟で 遺言状を残している。これは初戦の敗北を意識したものである。
そして仏ヶ根の戦いで家康参陣を見て 作戦の失敗を悟り、死に場所を家康の首に決めたことによる突撃だった。
確かに 徳川軍の急襲を受けた時点で「三河中入り」は失敗に終わったことは明白だったが、 そもそもの目的は 家康を討つことにある。
この瞬間、残された三河進撃隊 第1,2隊の使命は、少しでも長く家康本隊を足止めして 楽田城の秀吉本隊を待つことにある。
結果として 秀吉の政略・戦略を理解せず、自らの目的を優先したことが大敗に繋がったと言える。
華麗なる撤退
4月9日 正午すぎ
戦いは終わった。
※ 血の池公園
徳川軍が血槍,血刀を洗った池があった。今その池は無く、遊具のある公園になっている。
ここは小高い丘になっており徳川軍が布陣した面影を残す。
池田・森隊の残兵は混乱したまま北方の稲葉方面から篠木・柏井郷へと逃げのびた。
家康は追撃の深追いを注意し、矢田川沿岸以上深追いしないよう命令を出し、諸隊はこれをよく守った。
4月9日 午後2時
家康軍 富士ヶ根を出発。
首実験は形式だけで済ませ、瞬く間に撤退行動を開始している。
4月9日 午後4時
徳川軍 小幡城に到着
4月9日 午後8時
徳川軍 小幡城を密かに出発
西へ遠回りをしながら行軍
4月9日 午後11時
徳川軍 小牧山城に到着
一方の楽田城の羽柴秀吉
4月9日 正午
白山林の敗報を知る。
4月9日 午後1時
秀吉自ら2万の兵を引き連れ出陣。
途中、小牧山城からの部隊が並走し妨害してきたが、それに目も向けず前進した。
4月9日 午後5時
竜泉寺に到着し、長久手の様子を確認する。
そこで 池田恒興、森長可の戦死と家康軍 小幡城への撤退を知る。
竜泉寺で野営をし、明朝に小幡城を総攻撃することを決断する。
4月10日 午前4時
小幡城が ” もぬけのから ” であることを知り、その日うちに楽田城に引き返すことになる。
結局 全てが後手に回り、秀吉の出陣は独り相撲に終わってしまった。
その後の両雄
長久手の戦いの後、再び睨み合いが続くことになります。
秀吉は当初の 直接倒すことへの執念から、どのようにして家康を屈伏させるかという戦略へと変えました。
秀吉は5月に入って美濃へ退陣。犬山城に部下を残し、自らは織田信雄の属城(美濃、伊勢方面)に攻め込んだ。そして7月末には大阪へ戻った。
一方の家康も6月には清洲城へ移った。
この時点で「 小牧・長久手の戦い 」は終わったと言えます。
局地戦では家康の勝利でしたが、最終的には 秀吉が 美濃、西尾張、伊勢方面の織田信雄領をことごとく制圧して 家康を追い詰めていました。
その後 秀吉は家康に 和議(かなり上から目線な内容)を促すが、家康は秀吉の腹の内(天皇にどちらが勝ったかを見せつけること)を読んで拒否。
しかし、この外交戦略に織田信雄が飛び付いてしまう。
信雄はかなり過酷な条件をのまされることになり、これにより織田家は秀吉方に丸め込まれ、家康は秀吉反旗の大義名分を失ってしまいます。
こうして 秀吉の天下への道が加速していくことになります。
しかし、家康は 小牧・長久手の戦い で事実上敗北となりましたが、初戦の勝利により 秀吉にも世間にも家康の底力を焼き付けることが出来たことに、大きな意味がありました。
結果、秀吉は天下を取った後も 常に家康との関係を意識して行動しなければならなくなったわけです。
そして 1598年 秀吉が亡くなり、次の時代の役目をになったのが家康であり、小牧・長久手の戦いから じつに 14年の歳月を必要としました。
長久手の戦いから学ぶべき点
【 正確な情報収集と分析 】
長久手の戦いでは、秀吉方は 情報戦に負けた とも言えます。
徳川方が情報戦で有利に立ったのは 地の利があったからですが、当時の情報はその土地の豪族や農民をどれだけ把握しているかに大きく左右されます。
現地の人の協力を得る為の誠実な態度と、地道な外交努力
この積み重ねが生きた結果と考えられます。情報 = 人脈(人望)にほかなりません。
戦いの後、荒廃した地域施設の復旧にも目を配った家康の対応がそのことを物語っていると思います。
【 組織内の意志統一 】
目的の理解と優先順位の把握。
私利私欲、自己防衛意識の封印。
” 言うは易し ” ですが、これが出来た徳川方は、単に古参の家臣団で構成されていた との理由だけではありません。
日頃から部下を正当な判断で観ていた
その一面を垣間見ることができます。
それは、家康はこの戦いにおいて 部下の戦功として一番の恩賞を与えたのは、敵の大将 池田恒興や森長可を討ち取った者ではなく、盾となった岩崎城主 丹羽家であったことです。
織田信長のような 成果主義も重要ですが、長い目で見た組織運営では 家康のような 思いやりの目で対応する ことが大切だと感じます。
【 24時間、働けますか! 】
それにしても、41歳 家康 元気です。
4月8日 夜の8時に小牧山を出発し、4月9日 深夜 2時に小幡城を再度出発。
明けて午前10時から 大合戦をやって、ほぼ休む間も無く 午後11時 小牧山城に帰宅。
このパワフルな源は一体どこから湧いてくるのでしょうか。当時は ほぼ人力、当然 リゲインなんてありません。
昨今の働き方改革・ノー残業 鼻で笑われてしまいそうです。
当然これを見習うことは出来ませんが、やらねばならぬ時もある という心構えだけは持っていたいです。
以上でございます。
小牧山城から望む 秀吉 vs 家康 最初にして最後の激突!組織運営のヒントを探る 〜 その② 〜
◆ ◆ 奇策 と 油断 ◆ ◆
※ 盾となった岩崎城。尾張と三河の国境に位置する織田家 配下の小城。秀吉軍 三河進撃隊の前に 守備兵 300人 全員討ち死に。城内は血の海となり落城する。
その① から続く
小牧山城から望む 秀吉 vs 家康 最初にして最後の激突!組織運営のヒントを探る 〜 その① 〜 - とらべる ふぁみり
織田家後継問題から、最初にして最後の対決に突入した羽柴秀吉と徳川家康。
勢いよく飛び出した両軍だが、思惑とは裏腹に睨み合い、我慢比べが続く。
そんな中、秀吉方の織田家家老 池田恒興が 密かに徳川家の本拠地 岡崎を攻める 奇策 を提案する。
この作戦が、秀吉 家康の今後の関係を左右することになります。
その②では、組織運営に重要な意思統一の差が 結果を大きく変えていくことに注目します。
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膠着状態
▶︎ 1584年 3月29日
秀吉は 楽田城に陣を張り、周辺にいくつもの砦を築く。 8万もの兵を配備し、完全決着をつける様相。
対する 家康は 2万の兵力ながら、小牧山を完全要塞化。周辺に砦を築き 持久戦に持ち込む構えをとる。
このまま、一週間近く こう着状態に陥る。
秀吉の苦悩
お互いが にらみ合う中で、秀吉方の武将 池田恒興 (清洲会議の1人)が、家康の本拠地 岡崎を奇襲する 「 三河中入り 」作戦を 提案し、自分にその大役を任せてほしいと懇願した。
秀吉は、この作戦に猛反対する。
今の状況は動くべき時期では無く、奇襲とは一か八かの奇略であり、計画を入念にしないとまず失敗する。今リスクを負う必要が無い と作戦を却下する。深慮遠謀である。
これは正しい判断で、家康がこの立場でも同じ考えを持ったはずである。
しかし、秀吉は、池田恒興の再三の要求に折れてしまう。
この要因は、池田恒興の要求理由にあった。恒興の娘婿 森長可(森蘭丸の兄)の 名誉挽回である。
森長可は、初戦に負けた失態を悔やんでおり、その名誉挽回をしたいと願い出ていた。
※ 左: 池田恒興 家老として 織田家 影の立役者
※ 右: 森長可 鬼武蔵の異名をもつ勇猛な武者。
秀吉が恐れたのは、
武士の情けを受け入れないことで、
内部反発 → 寝返り → 自軍分裂
であった。
【 ポイント 】
秀吉陣営と 家康陣営の決定的な違い。
家康陣営は、松平家の時代から支える古参の家臣団で構成されていたが、秀吉陣営は、織田家の家臣。言わば 横並びの同士。いつ寝返りがあってもおかしくない状況にあった。
【 ポイント】
政略、戦略の目的意識 共有の差
秀吉の政略は、家康を力で確実に抑えつけ世間に誰が強いかアピールすること。
その為の戦略は、圧倒的戦力で家康を包囲・疲弊させ、ほころびが出た所を一挙に攻め立てる。目標は 家康の首 ただ1つ。
実力が拮抗する相手に 奇策や目の前の手柄を考慮する余地は無いと考えていたが、家臣の間では思惑にズレがあった。
秀吉は、「 三河中入り 」作戦について、途中の小城には目もくれず一刻も早く 岡崎城を目指し、城下への放火の後 即撤退する ことを強く要求している。
「 三河中入り 」作戦 発動
▶︎ 1584年 4月5日
秀吉 「三河中入り」作戦を決定。
4月6日 夜10時
池田恒興 率いる 三河進撃隊が、楽田城をひそかに出発。
4月7日
三河進撃隊は 篠木・柏井宿で宿泊。大留砦で現地の地侍と進路評議。
しかし、現地の地侍が 住人に対して 秀吉方への威嚇 勧誘をしたことで 逆に反感を買い、住人が家康に密告してしまう。
(この周辺は織田家の直轄地)
この日の午後には、家康は 住人からの報告を聞き、即座に偵察部隊を 数回に渡り送り出す。
【 ポイント 】
正確な情報入手と分析力
家康は、密告のあった4月7日の夜半には偵察部隊の情報を分析し、軍勢の正体と規模、その行き先を突き止めている。
※ 紫色の→ : 秀吉軍 三河進撃隊 進路
※ 水色の→ : 徳川軍 追撃隊 進路
4月8日 夜10時
三河進撃隊 総勢2万は、各隊 順次縦列体形で 出発する。
第1隊 池田恒興 6千(勇猛比類なき織田家雄)
第2隊 森長可 3千(名誉挽回の鬼武蔵)
第3隊 堀秀政 3千(経験豊富な荒武者)
第4隊 三好秀次 8千(若干17歳の総大将)
この時 三河進撃隊は、この作戦が敵に漏れていることに気づいていない。
迅速果敢を要する進撃隊が、何故かこの地で 2日近く停滞してしまう。
一説には、2度目の失敗が許されない池田恒興 森長可の立場が、逆に慎重にさせたと言われている。
一方の徳川軍
4月8日 夜 7時
家康は 三河進撃隊を強襲する先発隊 榊原康政(徳川四天王)4千人を小幡城に向けて出陣させる。※ 三河進撃隊より早い行動
同日 夜8時
家康を総大将とした井伊直政(徳川四天王)ほかの本隊 6千人も出陣。
4月9日 午前 0時
小幡城に徳川軍 集結。
夜半から軍議を開く。
※ 小牧山城 天守閣から 小幡城方面を望む
(距離 13km)
【 ポイント 】
家康 陣営が早く情報を入手し 追撃を開始できた要因
・小牧山から長久手にかけた一帯が、織田信雄の領地で情報を入手しやすかった。
・家康側は、部隊長クラスまで全て古参の家臣団で、家康本人が全て掌握できていた。
秀吉 陣営の弱点
・本陣のある犬山も含めて、基本的にアウェイの状況下での行動。
・全軍における意志統一が安易あいまいであったこと。
※ 徳川軍が 小牧山城から小幡城に打って出たことを、秀吉も三河進撃隊も気付いていない。
岩崎城攻撃 と 忍び寄る徳川軍
※ 紫色の→ : 秀吉軍 三河進撃隊 進路
※ 水色の→ : 徳川軍 追撃隊 進路
4月9日 早朝 4時
三河進撃隊は 昨晩からの夜間行軍で、第1隊 池田隊が、岩崎城付近にさしかかる。
その動きは 岩崎城側からも確認され、すぐさま 池田隊への攻撃命令が下される。
この時の城内守備には、城主 丹羽氏次の弟で 16歳の氏重がついていた。
兄 氏次は 小牧山城に参陣していた為、城内の守備兵は 300人ほどであった。
※ 岩崎城 天守閣より東を望む。
4月9日 早朝 5時
岩崎城からの攻撃を受けた 第1隊 池田隊は、岩崎城 総攻撃に入る。
兵数 300 余りの小城に 4000人の軍勢が攻め寄せ、あっという間に打ち破られ、城内は 血の海となり、全員 討ち死にをとげた。
同日 朝 7時
岩崎城 落城。
池田隊は、部隊の休息と朝食を兼ねて 岩崎城の北にある 六坊山 山嶺で首実検を始める。
しかし 第1隊の岩崎城攻撃により、後方の 第 2 , 3 , 4隊 は足止めをくうことになり、遂には 徳川軍の追撃を許すこととなる。
攻撃の謎 と 失態
三河進撃の 先鋒である 池田隊が、なぜ攻撃する必要もない岩崎城を攻撃したのか。
その主な理由として、二説 ある。
① 岩崎城からの狙撃で 恒興が落馬、激怒した 恒興が攻撃命令を下した。
② 初戦以来 敗戦が続いたため、岡崎入りの手初めに、軍神への血祭りを行った。
※ 岩崎城の防塁。大手門から土橋へと一挙に攻め込まれ 2時間ほどで落城。小牧山城と比較すると防御力の低さが分かる。
① の理由は、当時の鉄砲の射程距離 50〜80m であることを考えると、少し現実的ではない。
池田恒興 自身は、斥候を出して岩崎城を偵察させており、小城であるため素通りする事を決定したいた。
さらに 秀吉からは、敵の誘い乗らず慎重に行動し 必ず目的を達成する よう戒められていた。
それでは 何故。
理由は ② にある。
この時、岩崎城 迂回派と攻撃派で意見が分かれたが、第2隊 森長可を含め 攻撃を主張する家臣が多く、結局 軍神への血祭りと称して、組織の戦意高揚と目の前の手柄 に向かってしまったことが考えられる。
さらに岩崎城 落城後、勝利に酔って 首実検をおこなっていることで この作戦の主旨・目的意識に欠けている ことがわかる。
※ 首実検とは
敵方の首級(くび・しるし)の身元を大将が判定し、その配下の武士の論功行賞の重要な判定をする作業。
ちなみに 家康は、開戦当初から 敵に多くの打撃を与えることを優先するため、大将級 以外の「打捨て」(首を取らないこと)を命じており、徳川軍はこの軍令を忠実に守っている。
また、首実検は総大将である 三好秀次が行うことが 筋であるが、先発隊の池田恒興が行なった所に、この作戦の指揮系統が統一されていないことがわかる。
秀吉が心配した 準備不足 と 意志統一の欠如が 露呈した結果になった。
※ 池田軍 岩崎城攻撃進路
その③ 家康 渾身のヒット&ウェイに続く
小牧山城から望む 秀吉 vs 家康 最初にして最後の激突!組織運営のヒントを探る〜 その③ 〜 - とらべる ふぁみり
小牧山城から望む 秀吉 vs 家康 最初にして最後の激突!組織運営のヒントを探る 〜 その① 〜
◆ ◆ 宿敵 ◆ ◆
今から 435年前。
愛知県 小牧市から長久手市にかけた 一帯で、その後の日本を占う戦いがあった。
同盟関係でありながらライバルでもあり、のちに頂点を極めた両雄が、最初にして最後の 直接対決。
のちにこの戦いを、「 小牧長久手の戦い 」と呼びます。
今回 注目したいのは、この戦いの中で 組織運営にとって重要な
⚫︎決断力(情報収集と分析)
⚫︎行動力(優先順位の徹底)
⚫︎統率力(目的意識の共有)
が、現代のスピード社会でも驚くほどの短期間で発揮され、その事が、その後の両雄の関係に大きく影響したことです。
更に、仕事をする上で誰もが陥いる失敗が、敗北に導く決定的瞬間になったことも注目すべき点です。
⚫︎ 私利私欲 自己防衛 優先
⚫︎ 情報の過小評価(狭い範囲での判断)
この事は、社会、スポーツ、学業 など組織の中で働く者、行動する者にとって、注意しなくてはならない点ですが、多くの方が経験する失敗の要因ではないかと思います。
今回は、そんな戦国時代の一幕を、現代社会への教訓として覗いてみました。
※ 小牧山城 天守閣から、南東に位置する 長久手古戦場を望む。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
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「 小牧長久手の戦い 」の 概要
天正12年 1584年 3〜11月
織田信長 亡き後の後継問題から 清洲会議が行われ、次第に 羽柴秀吉 が頭角をあらわす。
その秀吉と、それを阻止したい 織田信雄(信長の次男)徳川家康 連合が、愛知県 犬山市, 小牧市, 長久手市 一帯で 激突。
しかし、両軍全面対決の準備をしながら、終始小競り合いの戦いに終わります。
戦いの概要を一言で表すと
「 矛盾の戦いによる睨み合い 」
秀吉 陣営の 8万もの大軍を「矛」とすれば、小牧山 を 完全要塞化 した家康 陣営は「盾」。
お互い手を出しにくい展開になり、長期間 膠着状態に陥ります。
最終的には 秀吉が 織田信雄を和睦に引き込み、その後の天下統一に繋げたことにより、歴史上は 秀吉 陣営の勝利とされました。
※ 清洲城 → 小牧山城 : 家康 本陣 ( 兵力 2万 )
※ 犬山城 → 楽田城 : 秀吉 本陣 ( 兵力 8万 )
今回 注目するのは、8万の大軍を持つ 秀吉が 家康本人に手を出せなくさせた戦いが 初戦にあったことです。
「長久手の戦い」1584年 4月6〜9日
※ 秀吉軍 第2隊 森長可に一斉射撃をする徳川軍
そしてその戦いは、秀吉が天下を統一した後も 家康に対して強く言えない状況にさせました。( 家康の拠点 岡崎は、刀狩りや検地の対象から外されました)
結果的にこの初戦は、徳川 260年の歴史に繋がるほど 重要な局面だったと言えます。
武将と当時の年齢
⚫︎秀吉 陣営⚫︎
羽柴秀吉 47歳
丹羽長秀 49歳(織田家宿老,清洲会議の1人)
池田恒興 48歳(信長の乳兄弟,清洲会議の1人)
森長可 26歳(森蘭丸の兄,恒興の娘婿)
三好秀次 16歳(秀吉のおい,秀吉の後継者)
堀秀政 31歳(信長の家臣,荒武者)
⚫︎家康 陣営⚫︎
徳川家康 41歳
織田信雄 26歳(信長の次男)
酒井忠次 57歳(徳川四天王)
榊原康政 36歳(徳川四天王)
井伊直政 23歳(徳川四天王)
丹羽氏次 34歳(岩崎城主)
激突までの 経緯
▶︎ 1582年 6月27日
清洲会議 (織田家 家督相続を決定する会議)
織田信雄(次男) , 織田信孝(三男)
柴田勝家 , 丹羽長秀 , 池田恒興 , 羽柴秀吉
※ 家康は、織田家の同盟客将のため参加していない。
▶︎ 1583年 4月22-24日
賤ヶ岳の戦い (琵琶湖 北部)
越前北庄城にて 柴田勝家 自害
尾張知多 大御堂寺にて 織田信孝(三男)切腹
秀吉の勝利
内部抗争が終わり落ち着いたかに見えたが、秀吉の台頭、威圧的な態度に、織田信雄(次男)が警戒心をいだき、両者の溝が深まりだす。
家康は、後継問題には中立の立場をとるが、水面下では反秀吉の外交を始める。
▶︎ 1584年
1月
羽柴秀吉 と 織田信雄 の和解会見 不成立。
織田信雄 が 徳川家康 に依頼状を送る
2月
信雄 と 家康は、秀吉反旗の約定。(密談)
3月6日
信雄、秀吉に宣戦布告をする。
3月7日
家康が 8千の兵を率いて 浜松城を発つ。
両軍 戦闘態勢に突入
織田信雄 , 徳川家康 vs
羽柴秀吉 , 丹羽長秀 , 池田恒興
▶︎ 1584年 3月13日
徳川家康 が 清洲城 に入る。
※ 木曽川の対岸より犬山城に潜入、1時間あまりで落城させる。
3月15日
近江坂本城にいた 羽柴秀吉が 池田恒興 犬山城 占拠 の報を聞く。
徳川家康が小牧山城に目をつけ 酒井忠次(徳川四天王)に占拠させる。
3月17日
秀吉方の 森長可(池田恒興の娘婿,森蘭丸の兄)が先手を打つが、徳川方の 酒井忠次(徳川四天王)に敗れて敗走。
※ 近代破壊兵器の無いこの時代、山頂からの銃撃の中 この土塁を突破することは、絶望的に近い。
3月27日
羽柴秀吉 犬山城に入る。( 兵力 8万 )
徳川家康 小牧山城に入る。(兵力 2万 )
3月29日
羽柴秀吉 楽田城に入り周辺に砦を築く。
織田信雄 (次男)小牧山城に入る。
4月に入るまで、楽田城の秀吉 × 小牧山の家康 共に にらみ合う。
その ② 「 奇策 と 油断 」に続く
https://mdesign0516.hatenablog.com/entry/nagakute-battle-look-from-komakiyama-castle-part-2