小牧山城から望む 秀吉 vs 家康 最初にして最後の激突!組織運営のヒントを探る〜 その③ 〜
◆ 家康 渾身のヒット&ウェイ
※ 武蔵塚 第2隊 森長可 討死の場所
※ 勝入塚 第1隊 池田恒興 討死の場所
※ 長久手古戦場跡 仏ヶ根の戦い激戦地
※ 血の池公園 徳川軍が血槍 , 血刀を洗った場所
その② から続く
小牧山城から望む 秀吉 vs 家康 最初にして最後の激突!組織運営のヒントを探る 〜 その② 〜 - とらべる ふぁみり
秀吉方 三河進撃隊の背後に迫る 徳川追撃隊。
遂に小牧・長久手の戦い最大の決戦が始まる。
その③ では、家康の組織統率力・決断力・行動力 が最大限に発揮された瞬間を紹介します。
現代のスピード社会から見ても驚きの、家康 渾身のヒット&ウェイ戦に注目!
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徳川軍の急襲 【 白山林の戦い 】
▶︎ 1584年 4月9日 午前 4時すぎ
三河進撃隊 第1隊 池田恒興隊が、岩崎城 総攻撃に入るちょうどその頃。
第1隊から 7 km 後方の白山林で待機していた 第4隊 三好秀次隊は、徳川軍に追跡されている事も知らず 朝食の準備に取り掛かっていた。
※この日の 日の出時刻は、午前4時35分
しらじらと夜が明け始めたころ、森が大きくゆれた瞬間、突如 徳川先発隊が第4隊 三好秀次隊の右舷に襲いかかった。
総大将の三好秀次は わずか17歳で全く戦闘経験が無い。すっかり動転してしまい、部隊は混乱状態に陥る。
部隊は総崩れになりながらも、白山林の南部高地 細ヶ根に踏みとどまり防戦に入るともに、第3隊 堀秀政隊と第1隊 池田恒興隊にこの危急を報告させた。
4月9日 午前 5時
第3隊 堀秀政隊は 岩崎城北部の金萩原で待機 休憩していた。
後方から銃声が聞こえた為、偵察を出し確認をさせる。
4月9日 午前 6時
第4隊 三好秀次隊の危急を知った 第3隊 堀秀政隊は、急遽転進 仏ヶ根をすぎ 桧ヶ根の高地に布陣する。
第4隊 三好秀次隊は、防戦しながら細ヶ根から高ヶ根の高台に移り 残存兵 千人ほどで布陣した。
秀吉軍の反撃 【 桧ヶ根の戦い 】
4月9日 午前 7時
徳川先発隊は猛追撃して 第4隊 三好秀次隊を追い詰めていたが、早朝からの急襲による疲労で 隊が乱れはじめていた。
これを見て第3隊 堀秀政隊は 桧ヶ根の高台より一斉射撃を行なった。
さらに高ヶ根の第4隊 三好秀次隊の残存兵も 一緒に攻撃に加わった。
2つの高台から攻撃を受けた徳川先発隊は 総崩れとなり 仏ヶ根方面へ敗走をはじめ、これを第3隊 堀秀政隊が追撃した。
それを見届けた 三好秀次は、稲葉方面(白山林の北、矢田川を越えたあたり)へ引き揚げてしまう。
【 ポイント 】
なぜ重要な作戦の総大将に 若い三好秀次がついたのか。
これは 羽柴秀吉の読みの甘さによる。
三好秀次を抜擢したのは、秀吉の後継者としての経験を積ませる目的があった。
秀吉は自軍の過大評価と敵の底力を見落とす傾向があり、家康を案外簡単に追い詰めることが出来ると判断していた節が見られる。
結果、三好秀次の指揮者としての経験不足と実力ある武将 池田恒興、堀秀政との食い違いが、全体の足手まといになってしまった。
家康の底力 【 仏ヶ根の戦い 】
4月9日 午前 8時すぎ
桧ヶ根の戦いが終わるころ、家康本隊は 桧ヶ根の南東にある富士ヶ根に布陣していた。
これは、第3隊 堀隊と第1,2隊 池田・森隊とを分断する目的であり、何事にも慎重な家康としては珍しく危険を冒しての強行作戦だった。
( 敵戦力分断 = 挟み撃ちにされる最悪の状態もありうる)
堀秀政隊は徳川先発隊を追撃して南下を始めたが、富士ヶ根に家康本隊の金扇の馬印を見て驚愕してしまう。
ここに至って堀秀政隊は 家康が参陣している事を 第1,2隊に報告し、部隊の疲労と三好秀次の護衛を理由に 稲葉方面へ撤退をしてしまった。
4月9日 午前 9時
両軍が 仏ヶ根を挟むように布陣する。
4月9日 午前 10時
仏ヶ根の決戦 戦闘開始
※ 家康勢は 仏ヶ根湿地帯を前にした高地に布陣。徳川勢は足場も良く小松などで防御され、一方の秀吉勢はぬかるんだ湿地に足を取られる状況にあった。
※ 家康軍は仏ヶ根の地形を十二分に活用した布陣と言える。
開始早々、家康方の右翼 井伊直政隊が 秀吉方 左翼 池田元助,輝政隊に襲いかかり、池田隊の諸隊を撃破する。
一方の森長可隊と対峙していた家康本隊も森長可隊に突撃し、その先鋒諸隊を撃破する。
両軍入り乱れての大乱戦は 家康軍が圧倒的に優勢であった。
4月9日 午前11時すぎ
劣勢を覆すため 森長可隊は長可自身が先頭に立ち、家康本陣に決死の突撃を行った。
しかし、これは無防とも思える捨て身の戦法であった。
白絹の袖無し羽織 を着た森長可は、徳川軍鉄砲隊の的になり、ついには 眉間を撃ち抜かれて即死してしまった。
※ 森長可隊に一斉射撃をする徳川鉄砲隊
森長可隊の劣勢を見た 池田恒興隊は、中央から救援に向かおうとするが
時すでに遅く、救援どころか自軍も左右から猛攻撃受けて包囲される。
そして、小高い松林の中にいた恒興は、徳川方の永井伝八郎直勝に討たれてしまった。
※中央 討たれた池田恒興
※右 池田恒興の首を背負う永井伝八郎直勝
【 ポイント 】
仏ヶ根の戦いで徳川軍が圧勝した理由
⚫︎ 現地の情報収集により最適な対応
家康は仏ヶ根に布陣する直前、決戦になると予測して仏ヶ根周辺を偵察・情報収集をさせ、それを有利な陣取りに繋げている。
さらに軍奉行(軍事指揮官)を最前線部隊に従属させ 敵情とその処置を考えさせたことで、全軍の柔軟な対応を可能にしていた。
⚫︎ 森長可の無謀な突撃が敗戦を早まらせた。
森長可は この「三河中入り」作戦で討ち死にする覚悟で 遺言状を残している。これは初戦の敗北を意識したものである。
そして仏ヶ根の戦いで家康参陣を見て 作戦の失敗を悟り、死に場所を家康の首に決めたことによる突撃だった。
確かに 徳川軍の急襲を受けた時点で「三河中入り」は失敗に終わったことは明白だったが、 そもそもの目的は 家康を討つことにある。
この瞬間、残された三河進撃隊 第1,2隊の使命は、少しでも長く家康本隊を足止めして 楽田城の秀吉本隊を待つことにある。
結果として 秀吉の政略・戦略を理解せず、自らの目的を優先したことが大敗に繋がったと言える。
華麗なる撤退
4月9日 正午すぎ
戦いは終わった。
※ 血の池公園
徳川軍が血槍,血刀を洗った池があった。今その池は無く、遊具のある公園になっている。
ここは小高い丘になっており徳川軍が布陣した面影を残す。
池田・森隊の残兵は混乱したまま北方の稲葉方面から篠木・柏井郷へと逃げのびた。
家康は追撃の深追いを注意し、矢田川沿岸以上深追いしないよう命令を出し、諸隊はこれをよく守った。
4月9日 午後2時
家康軍 富士ヶ根を出発。
首実験は形式だけで済ませ、瞬く間に撤退行動を開始している。
4月9日 午後4時
徳川軍 小幡城に到着
4月9日 午後8時
徳川軍 小幡城を密かに出発
西へ遠回りをしながら行軍
4月9日 午後11時
徳川軍 小牧山城に到着
一方の楽田城の羽柴秀吉
4月9日 正午
白山林の敗報を知る。
4月9日 午後1時
秀吉自ら2万の兵を引き連れ出陣。
途中、小牧山城からの部隊が並走し妨害してきたが、それに目も向けず前進した。
4月9日 午後5時
竜泉寺に到着し、長久手の様子を確認する。
そこで 池田恒興、森長可の戦死と家康軍 小幡城への撤退を知る。
竜泉寺で野営をし、明朝に小幡城を総攻撃することを決断する。
4月10日 午前4時
小幡城が ” もぬけのから ” であることを知り、その日うちに楽田城に引き返すことになる。
結局 全てが後手に回り、秀吉の出陣は独り相撲に終わってしまった。
その後の両雄
長久手の戦いの後、再び睨み合いが続くことになります。
秀吉は当初の 直接倒すことへの執念から、どのようにして家康を屈伏させるかという戦略へと変えました。
秀吉は5月に入って美濃へ退陣。犬山城に部下を残し、自らは織田信雄の属城(美濃、伊勢方面)に攻め込んだ。そして7月末には大阪へ戻った。
一方の家康も6月には清洲城へ移った。
この時点で「 小牧・長久手の戦い 」は終わったと言えます。
局地戦では家康の勝利でしたが、最終的には 秀吉が 美濃、西尾張、伊勢方面の織田信雄領をことごとく制圧して 家康を追い詰めていました。
その後 秀吉は家康に 和議(かなり上から目線な内容)を促すが、家康は秀吉の腹の内(天皇にどちらが勝ったかを見せつけること)を読んで拒否。
しかし、この外交戦略に織田信雄が飛び付いてしまう。
信雄はかなり過酷な条件をのまされることになり、これにより織田家は秀吉方に丸め込まれ、家康は秀吉反旗の大義名分を失ってしまいます。
こうして 秀吉の天下への道が加速していくことになります。
しかし、家康は 小牧・長久手の戦い で事実上敗北となりましたが、初戦の勝利により 秀吉にも世間にも家康の底力を焼き付けることが出来たことに、大きな意味がありました。
結果、秀吉は天下を取った後も 常に家康との関係を意識して行動しなければならなくなったわけです。
そして 1598年 秀吉が亡くなり、次の時代の役目をになったのが家康であり、小牧・長久手の戦いから じつに 14年の歳月を必要としました。
長久手の戦いから学ぶべき点
【 正確な情報収集と分析 】
長久手の戦いでは、秀吉方は 情報戦に負けた とも言えます。
徳川方が情報戦で有利に立ったのは 地の利があったからですが、当時の情報はその土地の豪族や農民をどれだけ把握しているかに大きく左右されます。
現地の人の協力を得る為の誠実な態度と、地道な外交努力
この積み重ねが生きた結果と考えられます。情報 = 人脈(人望)にほかなりません。
戦いの後、荒廃した地域施設の復旧にも目を配った家康の対応がそのことを物語っていると思います。
【 組織内の意志統一 】
目的の理解と優先順位の把握。
私利私欲、自己防衛意識の封印。
” 言うは易し ” ですが、これが出来た徳川方は、単に古参の家臣団で構成されていた との理由だけではありません。
日頃から部下を正当な判断で観ていた
その一面を垣間見ることができます。
それは、家康はこの戦いにおいて 部下の戦功として一番の恩賞を与えたのは、敵の大将 池田恒興や森長可を討ち取った者ではなく、盾となった岩崎城主 丹羽家であったことです。
織田信長のような 成果主義も重要ですが、長い目で見た組織運営では 家康のような 思いやりの目で対応する ことが大切だと感じます。
【 24時間、働けますか! 】
それにしても、41歳 家康 元気です。
4月8日 夜の8時に小牧山を出発し、4月9日 深夜 2時に小幡城を再度出発。
明けて午前10時から 大合戦をやって、ほぼ休む間も無く 午後11時 小牧山城に帰宅。
このパワフルな源は一体どこから湧いてくるのでしょうか。当時は ほぼ人力、当然 リゲインなんてありません。
昨今の働き方改革・ノー残業 鼻で笑われてしまいそうです。
当然これを見習うことは出来ませんが、やらねばならぬ時もある という心構えだけは持っていたいです。
以上でございます。